スケートと浪速のエンターテイナーとスケート

大好きなフィギュアスケートとその競技界で奮闘する友野一希選手について語ります

ラビットラビットホワイトラビット(🐇時々🦇)

今日から10月。

色々満載だったのにちゃんと書き記さないとと考え過ぎてなかなか更新できないでいたがとうとうスタンスを変えます。

烏滸がましくも、ここのログを使って自分にできることが何かないだろうかという気持ちがあったのは事実。一介のしかもかなり底辺のファンなりに有益なwebになれればいいと思っていた。かえすがえすも烏滸がましいぜ!

 

だがしかし、それをするには、私は怒涛のアウトプット未遂のツイッタ人間過ぎて、瞬発的には140字みっちり出るくせに言いたいことと責任のバランスも考え過ぎてあらたまった場⁇では結局なにも出せなくなってしまう。ネットの海に人様のことを出すのは責任重大なのだ。の、猛烈な呪縛。

結果、うまいことやるのはムリでした!

 

 

もちろん人目に触れること、固有名詞を用いるので配慮が必要なことは重々念頭においたうえで、だがしかしもう、もっと自由に日々の感じたことを残していきたい。

好きなことをただ素直に熱く語ればいいのだということを教えてくれたのも友野くんでした。

スケートや身体表現だけでなく、発する言葉からも魅力が溢れてくるのでどうしようもないぜ。友野一希(突然の居直り

 

 

スケートは人柄が出るとか、よくスケオタが使いがちな文言で、また、少し前の根性論みたいなところで用いられがちで、正直いうと長らく私個人はその考えに少し疑問というか天邪鬼的な反発の気持ちがあったんですよね

これは彼が言っていた意味からは飛躍してしまうのだけど、しばしば完全無欠にしたいときの代名詞にされたり、逆にライバルだったり何か批判したい相手との引き合いで使われることが目についていたし。

あとほら、他競技でも私生活がとか直接競技に関係ない仕事の露出がとか礼儀(メディア対応)がとかでこの手の話が出されるのをたびたび見かけてきたので(ここ最近だけでもうんざりマン)

いやいやいや、外野に何がわかるん、スケーターだって人間ぞ、氷の上でどんだけやってこそやろ!みたいな。むろんこれもある側面で非常に大事な、観る側が忘れてはならない事です。

ちょっと話広げ過ぎだけど、そこに繋がってきそうでね。

 

そういうのもあって私は、友野くんのスケートと同じくらいかあるいはそれを超えるくらい、生き方(人生の満喫)の幅や滲み出る生き様とか紡ぐ言葉にほんとはすごくすごく惹かれているのくせに、とはいえ、アスリートたるものそこを含んでの応援はよろしくないのではとか、ちょっと無理してバランスを取ろうなんとか取ろうとしていた。

我々にみえる姿はいずれにしろご本人を形成するなかのほんの一部に過ぎないのだから。しかも実は自然体とみせかけてぜんぶよそいきかもしれないし!(わかった気になっちゃいけないぞとブレーキをかける自制型オタクのアレ)

 

だけどどうだろう、彼自身の解れた言葉でフィギュアスケートの魅力として語られると、「いや、本当そうやん」「わたしがフィギュア好きなところと同じやし!」と、ごくごくシンプルな気持ちに立ちかえる。

もちろん個人差はあるでしょう。氷に乗ったら別人タイプもいるし。ただ、友野くんはそう、その人の生き様が表れる、それがフィギュアだと感じながら、自身もそのつもりで氷の上にいるんだなと、そしてその姿をお届けしてくれているのだな(と受け取ってよいよね?)

 

彼のスケートが観客を置いてけぼりにしないのは、ただパフォーマンスが派手だからではない。アピール激しいからでもない。と思ってる。

たしかに年若い頃はその側面も強かったかも知れないが、それでも何だろう、そういうインパクトを超えた強烈な「人懐っこさ」みたいなものがあった(あくまで氷上での話ね)

競技の場面でミスが重なったり体力的にきつくなってきて、でも懸命に顔をあげて両手を広げて。誰かが言っていたが「俺を見ろ」以前に「俺が見る!」

いっぱいいっぱいなはずの時にもその意識に引き寄せられて、結果とは関わりなく観る側を高揚させていたように思う。

 

成熟した今はそこに、単なるアピールではない、底上げされた技術をもって細部まで作り込まれた所作によって観るものの意識を惹きつけ、仮にエレメンツに綻びがあった場合にもそれを濁りにみせない余裕の楽曲表現(正直表現というとってつけた言い方しかできないのがもどかしい)や、ミスなど忘れさせる(これもありきたりな言い方しかできなくてもどかしい)見せ場やフィニッシュまでいっさい舞台から降りない姿で我々をその世界に連れて行ってくれるのだ。

 

これは、突出した体幹であったりお手本級の正確エレメンツの切り取り組み合わせだけでは出せない才能と技術(敢えて技術という)だと、わたしは思っている。

その証拠として、ここ最近彼の代名詞となっているフリーのコレオ、それが今季のこうもりでは独立したエレメンツパートとして浮いて感じないのだ。その代わり、冒頭滑り出しからすべての場面が楽器を、オペレッタの世界観を全身であらわしていて4分間オールコレオタイム、これは挑戦だと思っている。大袈裟ちゃうぞ。

 

待って、こうもりの魅力を語る会は次に持ちこそうと思ってたのにちょっと突っ込んでしまった。いや、あれは素晴らしいプログラムです(何様)

エレメンツを組み立てるためのプログラムではない。完全に音楽表現のなかにエレメンツを溶かし込もうとしているプログラム。

 

101点という成功を捨ててまるきり違うスピード感をぶち込んだショートのhappy jazzしかり、こじ開けた天井の穴をさらに広げて飛躍したい大切なシーズンにこの楽しそうにみえて鬼こうもりを競技プロとして仕上げるのは容易でないかもしれないが、私は、このプログラムが心底大好きだし、生きてる間にこんな上質なおもちゃ箱のようなプログラムを競技で見られて嬉しいくらい気持ちだし(大袈裟ちゃうぞみんな観て!)この先細かなピースが揃っていってさらに素晴らしい景色が見られるのを本当に楽しみにしているし、そうなる日を祈ってる。

 

なぜなら今すでに確実に最高だから。

 

 

そして話が行ったり来たりするけども、フィギュアスケートはその人の人生という確信と、今季のプログラム3つを観たことによりずっと理由なんてあるかい!と思ってきていた

「自分は何故にこんなに友野くんのスケートが好きなのか、友野一希というスケーターの好きな理由」

というのが、ぼんやりではなくかなりはっきりと形になりました。

 

ちなみに、前にも記したかと思うしことあるごとに口にしてる気もしますが、

「自分が何故にフィギュアスケートが好きか」

の答えは全日本ララランドの現地体感にありました。

 

 

 

 

 

 

長くなってごめんなさい。

書き留めた下書きが20を超えるほどの産みの苦しみからの再開なのでこんななったけど、このボリュームが毎日続くわけじゃないです。安心してくださいw

 

競技が好きだからみんな応援しているけれど低浮上なときも推しの話題がでたらつい盛り上がってつぶやきに偏りがちな私が、この先空気読めないひとになるのを防ぐ意味合いもあるので(そうやってまた考え過ぎるやつ

今日も各所で試合がありますし。

 

 

 

友野くん、どうかご自身の最適解に沿うように、日々よい練習が積めていますように。

そして豊かな表現を彩る生活も充実して過ごせますように🌈