スケートと浪速のエンターテイナーとスケート

大好きなフィギュアスケートとその競技界で奮闘する友野一希選手について語ります

NEWニューシネマパラダイス(DOI 7/10ソワレを視聴して)

このあと率直な物言いをするので先に結論からいうと、過去プロのブラッシュアップというかリニューアルなのに、これまでDOIや初戦でみたお披露目時のどれよりも深く胸をうたれました。



私見だけでいうと、2018DOIの最初のシネパラを現地でみたときの印象をはるかに超えたもの。もちろん当時から大好きなひとが沢山いる、とても素敵なプログラムだったけれども。



いまだから言えると判断したうえのことですが、正直最初のシネパラは彼にとっての課題曲のように捉えて見守っている節が私個人の気持ちとしてはありました。


それまでの競技プロで、メリ!ハリ!とスピードを持ち味としてきた印象があったから、流れるような緩急と伸びやかでゆったりした滑りを合わせて間伸びしないような曲というのはいっけんシンプルでやりやすそうにみえて、淡々とエレメンツ実施するタイプではない彼にとっては逆に困難がともなう挑戦なのではと内心思っていて。


そもそも、外(観客)に向けてエネルギーを放出し、受け取った観客とともにボルテージをあげていくような、そういう強みに秀でているぶん、内向きのしかも静かでエモーショナルなものに引きこむだけ引きこんで完遂するような部分は当時まだ未開拓な気がしていたので。


同時にご本人はそういう立つだけ一漕ぎするだけで存在感をだす滑りにすごく憧れているのはそれまでの言動から感じていたので(ちなみに私もそういうスケートやスケーターが大好きである)、これがやりたかったことなんだなあ、というのはすごく感じたし、実際すごくよく作り込まれていてとても素敵だった。とはいえシーズン中苦労する場面を見かけるたびに、一気に飛躍したいシーズンだろうにもっと得意分野で数字を伸ばすような、やりやすい手順あるんじゃないかと勝手ながらやきもきしていた。

得点や結果どうこうよりも彼のスケートが大好きで惹かれて、なのにいつしか周りを気にしたり数字を気にしたりすることが1ファンの身分でありながら先にたってしまっていた。

勝手なものです。各方位ごめんなさい。


ミーシャとのタッグがすごく嬉しくワクワクする気持ちと、リトルミーシャのままじゃだめじゃん、しかも高難度ジャンプに気を持っていかれてしまってはリトルミーシャの型から抜け出せないよ、がんばれがんばれ… みたいな、祈るような気持ちと。

本来なら五輪後のシーズンでなおかつルール変更後であれば、新ジャンルでお試しするに最適な年だったはずだけれど、同年代ならびにその下の若手(フィギュアにもZ年代は確実に脅威)の複数高難度ジャンプを取り入れたうえのオールマイティな波はすさまじく、幼い頃から所謂スター街道を歩んできたわけではない彼にとって、すべての要素を底上げしようと猛烈な鍛錬をかさねているスピードがそこに間に合うのか、新しいことにまで手を広げるのは無謀なのではという超勝手な気持ちもありました。


苦しんでいる姿をみるのもつらかった。

2018全日本で、冒頭ジャンプでみたことないような転倒をしてそのあと立て直すも、終わった瞬間信じられないような表情で口元を覆う姿を、手前のアリーナから友人にお花を投げこんでもらう様子を視界の隅に確認しながら、正直あとのことがその日はもう頭に入らないくらい、真っ白になりながらその姿をいつまでも振り払えずにいた。


今思うと、翌季のこれまた更なる挑戦となったコンテンポラリーでシーズン序盤ジャンプのタイミングがどうしても合わず苦しみ抜いてるかのような姿に比べるとさほどでもなかったのだけど、全日本の前から来てみてくれていたミーシャの前で完成させたプログラムをみせたかっただろうし、目指す舞台に自力で上がるチャンスでもあったし



あまりよくない言い方を続けてしまったけれど、それはともかくとして、旧シネパラも本当に素敵なプログラムだったし、試合での完成度としても西日本のシネパラなどはとてもよかったし、あの年シングル復帰した大ちゃんを迎えうつのにも相応しいプログラムだった。瑞々しい少年の直向きさがとても合っていたように思う。


ただ、次から次とままならないことが続く競技人生の只中にあるさまを、映画とその愛のテーマに重ねて見ているようでもあった。



そこからの今回


流行病の困難期にあり新プロを断念し前の年を継続した1年をはさみ、新しいシーズンを迎えるにあたって(師匠の匂わせもありつつ)Life-ganbarudeトーク(命名すな)でご本人から固有名詞はださないまでも新ショートが発表されたとき、おし寄せるようにあのシーズンの記憶が視聴者である私にも伝わってきた。


ganbarudeトークがとても充実していたのでその場は堪能したのち、数日後あらためての発表で目にした冒頭のポーズのあまりの美しさに、聞いてはいたけれどこれは再挑戦でもあるけれど、3年前発表されたときと同じ形同じアングルなのに成熟した今の新しいプログラムなのだなと実感させられた。


年始の名古屋フェスで思いがけずシネパラだったときに想定外で驚いた以上の、忘れることができない熱量を感じて、あのプログラムってこんなグワっときたっけ… という泣きそうになる気持ちに戸惑いすら覚えたのだけれど。

あれがブラッシュアップというかリニューアルされて迎えるこの特別なシーズンに来るのか、という思いが



脳漏ればかりで実際の新しくなったシネパラの感想が文になってないのだけれど、実際とても言葉にできるものではなかった。

音源は同じで冒頭とフィニッシュは同じ、ただ、友野くん自身がいうように別のプログラムになっていた… 細かい振り付けだけの話ではなく。構成が京フェスでぶっ込んできた翌シーズンからの2クワドになっていることはともかくとして、旧シネパラは青春を見守るフィルムでありシチリアの海面にさす光。対して昨日みたものは、あの頃を包括したような、里帰りして回想する大人のトトの、穏やかさと若き日への心残りに激しさを秘めた胸のうち。


私個人的には映像は冒頭以外はアップにせず全身を引きでみたい主義ではあるが、冒頭の表情を全面に映し出したのは、ずるい以外のなにものでもなかった(まずあれでもうダメになってしまった)


(あえて中身のポイントをあげると、中盤振り返るところの仕草が変わったその一連の動きがたまらないことはどうしてもここにも注記しておきたい)


このプログラムとともに今シーズンを歩むのかと、まともには具体的に言葉にできない胸に詰まるものを感じたのだった




そんななか公式パンフに寄せられた3文字の言葉。


気持ちがざわつかないといったら嘘だ、はっきり言えば。ここで嘘ついても仕方ない。


ただ、その言葉の指す意味はイメージしがちなひとつではない。


状況的に世界を目指す全アスリートにとって今季が節目である事実と、もう学生ではない企業に所属する成熟した年代のアスリートにとっては11年がまた大切な節目であることも現実で。


だから私は、そこを意識したくない方向にあえて深読みはせずに、しかし、ただ、大切に、ひとつひとつの機会を観られてもたとえ観られなくても、大切に(二度いう)応援していきたい。

その気持ちこそが、自分の核だとなんども確認している。



ただし勝手な想いも付け加えさせていただくと、このところ、若い頃からの盛り上げ上手なショーマンぶりはすでに凌駕しきった、月並みな語彙でくやしいが真の表現者としての深みが凄まじく、これを絶つようなことが仮に近いゴールとしてあるとしたら、それはあまりにも勿体ないし世界の損失(ついにこれ言ったな)(訂正はしない)


私が友野一希の末端ながら気持ちだけは強いファンなものだからどうしても説得力に欠けてしまうのが本当に口惜しい。


NHK杯エキシで未公開なまま(根にもってます)にそっと書かれた「表現の神」に、字面はいっけんデカいかもしれないけど真の意味でなれると私は実感をもって信じているので。


ひとさまの人生ではあるけども、この世界からぜったいに失いたくない類希な存在です。



もうそこに届きつつある、と、このショーシーズンからとみに感じている。

それを、新しいニューシネマパラダイスをみて確信した。



勝手なファンの思いだけれど、こればかりはどうか届いてほしい。



友野一希さん、あなたはあなたでしかない、この世界に必要であり稀有な表現者です。